基本的人権が守らなければならないもの
1998年3月16日 立山紘毅



 15日付けの日本経済新聞における紀藤正樹弁護士の「インターネット免許制」もそうですし、郵政省・堀部政男教授による「公然性を有する通信」概念にしてもそうですが、不特定多数の人に対して、あるメッセージを公然と発信することって、そんなに規制しなくちゃいけないことなんですか?

 TVドラマ「ギフト」(私は見てませんが)をめぐってのお話で、人気者がナイフを持っていることが、TVや人気者のもつ影響力をわきまえないことだ、と批判されていますが、ある表現が影響力をもつことって、そんなに悪いことなんですか?

 なんだか昨今の議論を聞いていると、憲法上保護される表現というのは、上品に、他の人に影響力を与えずに、つつましやかに・ひそやかに行われるもの、しかも、多くの人に(できれば、あらゆる人に)喜ばれるものに限られる、といわんばかりの御説がまかりとおっているようです。しかし、「表現の自由」というものが「その程度のシロモノ」(あえてこういう言い方をします)にすぎないのならば、生命を賭しても守らねばならないほどの貴重な基本的人権などと私が講義で強調するほどのものでもありません。せいぜい、多くの人に喜ばれるのだから、さぞや大もうけできることでしょうね、程度のお話しです。まして、「その程度のシロモノ」の研究ごときを、やれ天職だの生涯をかけての事業だのと他人様に誇れるようなものでもありません。

 表現とかコミュニケーションとかいうものは、多くの場合、できるだけ多くの人(ということは、当然、不特定多数の人を相手にできればできるほどいいわけです)に見てもらい、聞いてもらって、自分の意見に対して共感と同意を求め、可能ならば行動をともにしてもらうことを欲して行われるものでしょう。つまりは、できるだけ公然と、しかも強い影響力を与えることを欲して行うもののはずです。その影響力の与え方というものはさまざまです。もちろん、きわめて高度のレトリックと知識と品格とをもって人々に感銘を与え、それによって影響力を行使する場合もあるでしょう。しかし、あえていわせてもらえば、こういう言論や表現というのは、あえて「表現の自由」などと厳しく議論する余地は、実は小さいのです。なぜなら、誰もが感銘を受けるような表現というものは、自ずと多くの支持を集め、「数の力」でもって自らの立場を保護することができます。たとえば、議会において、あるいは「世論」という形でその主張を維持することができます。

 しかし、影響力の与え方というものの中には、そういう形ばかりがあるわけではありません。洗練されておらず、野卑で、下品で、「良識ある」人の眉を顰めさせる不快で攻撃的な表現というものもあります。そういうカテゴリーに属するものの中でも、比較的洗練されたものとしてはアフォリズムという表現手法がありますが、これとても、世間的な常識の中で生きている人にとっては、むしろ不愉快な表現に属します。

 今日、古典と呼ばれる芸術作品の中にも発表当時、轟々たる非難を巻き起こし、場合によっては「わいせつ」とのかどで訴追さえされたものがあることはよく知られています。結局の所、その時代を支配する常識や道徳や倫理、つまりは、その時代において「よいこと」とされるもののウソや欺瞞を暴き立てたこと、そのことが人々の不興を買ったのが非難された理由だ、というのは数百年を経てみるとよく理解できますが、とかく同時代にはそういうふうに理解されないのが常です。

 2つばかり例を挙げます。

 「現代日本の最高の知性」とか「最後の百科全書派」などと呼ばれ、博識と端正で明晰なコラムで知られる加藤周一氏は『真面目な冗談』という本を出版しています。たしか著作集にも入っておらず、この本について言及する人もほとんど見かけないのですが、ぜひともご一読をお薦めします。私は実際に氏に一度お会いして、その迫力に圧倒されたのですが、その後その書物に接して非常なショックでした。お会いする前に読んでいなくてよかった、と思ったくらいでした。

 アフォリズム(ただし、あまり上手とは思えない)に満ちた作品集なのですが、それよりもむしろ、氏の端正さ・明晰さの裏側に潜むどす黒い面、見てはならない一面を見てしまったような悔恨や気持ちの悪さを感じて仕方がありませんでした。あえていえば、不愉快な一冊という気持ちを抑えきれません。
 いずれ、氏自身が研究対象とされるとき、この本は絶対に避けて通れない一冊となることでしょうが、どうしてこのような書物を出版されたのか、私にはどうしてもその意図が理解できません。ただ、あるいは、ひょっとして、その人の自由とか理性とかいうものに対する理解の度合を、こういう書物に対する寛容とか許容とかの度合で測る「リトマス試験紙」なのかな、とも思っていますが、凡人にははかり知れないとしか言いようがない、というのが正直なところです。

 現代アメリカの音楽事情については、さっぱり疎いのですが、ポップ・ミュージックの中でも、日本ではあまり紹介されることのない、マイナーでカルトな音楽の中には、ずいぶんと過激なものがあるんだそうです(忌野清志郎なんぞはメじゃないらしい)。ジャンルそのものの名前すらよく知らないのですが、時折、マスコミで紹介されるものを見ていると、スラングや差別用語、あるいはわいせつとされる表現をあえて多用して、現代アメリカ社会を痛烈に風刺したり非難したりするわけですが、当然のことながら「良識ある」人からは極めて評判が悪く、ある意味でまことに「善意」あふれる人が、まことに「ご親切に」そういうものを子どもに見せてはいけない、と、点検にこれ努めるのだそうです。結果、いわゆるコンビニなんかで売られるCDには「cleansed」のマークが付けられ、そういう歌詞やフレーズを含む部分をばっさり削ったものがあるそうです。コンビニはコンビニで、そういう「良識ある」お客さんを敵に回すのは具合が悪い、という判断もあるようです。わざわざ別バージョンを作って売られるものがある、ということは、おそらく、店頭に並べられることなく闇から闇へ葬られるものがどっさりあるん だろうな、と想像しています。

 なるほど、聞いていて快いものではないし、お世辞にも上品でもないし、むしろ、攻撃的で粗野で不愉快なシロモノにはちがいありません。それが攻撃しようとしているものは現代の常識や良識の欺瞞でありウソであって、その常識や良識を自らのよって立つ・生きる基盤としている人にとっては、自分自身を否定されるような気分にもなるのでしょう。

 そういう表現は「違法」すれすれ、あるいは、あえて違法とされることを欲しているようなところさえあります。違法ではないとしても、不愉快で下品で粗野で攻撃的な表現であることには間違いありません。しかし、そういう表現者たちは、違法として訴追され、マーケットから追放されれば、さらにそれをネタとしてもっと激しく常識や良識の欺瞞を暴き立てるチャンスだ、と思っているふしさえあります。つまりは、そういう形で社会にショックを与え、それをテコとして影響力を行使しようという戦術なのでしょう。

 表現の自由が基本的人権であるかぎり、それはあらゆる人に保障されなければなりません。しかし、その中でも、誰もが喜び、支持し、共感するに違いない表現なら、あえて表現の自由による保護だの、国家権力や社会的権力による抑圧の禁止だのと言い立てる必要はありません。それが集める「数の力」によって自らの立場を守ることができますから。まして、国家権力に喜ばれる表現行為、社会的権力から推薦される表現行為の類いなぞ、あえて「表現の自由」などと大上段にふりかぶる必要など毛頭ありません。むしろ、それがあらゆる人に保障されるべきものであるとするならば、良識ある人の眉を顰めさせ、多くの人から毛嫌いされ、下品で粗野で攻撃的な・不愉快な表現こそ表現されなければならないのです。それは孤立無援であり、「数の力」によって抑圧される危険に瀕しているからです。

 もっとも、そうした表現が、その態様の如何によっては、具体的に特定の個人あるいは社会的集団に対する侮辱や冒涜、あるいは人権侵害そのものにあたる場合もあることでしょう。それが刺激的であり、攻撃的であり、影響力があればあるほど当然のことです。

 そして、両者の人権の間に優劣や上下の関係はないのです。どちらも同じように守られなければならないのです。一方を犠牲にして他方を守るとか、別の利益をもって制限された権利の埋め合わせにする、といった「解決」が許されない領域なのです。「あちら立てればこちら立たず」になることはわかり切っていながら、両方とも立ててみせなければ、憲法や基本的人権というものの破綻につながる性質のものなのです。

 国旗焼却事件やハスラー裁判、あるいはCDA違憲判決をはじめとするアメリカ最高裁に対して、私が抱く敬意というのは、それが基本的人権をめぐる生理と病理、光と陰、具体的な社会関係や人間関係、そういう重大な問題を全身全霊で受け止め、とにもかくにも真摯な解答を出そうと努力する姿勢を貫こうとしていること(実際に貫いているかどうかは別問題です)に由来します。決してレトリックの巧妙さや論理の切れ味の如何ではありません。常識や良識と称されるものによりかかれば楽なことはわかり切っていながら、あえて法の論理をどこまで透徹させることができるかに挑戦しているような気さえします。「私はあなたには反対だ。だが、あなたがそれを言う自由は命を賭けて守る」という言葉はよく引用されますが、その実践は、基本的人権が持つ生理と病理を見据え、全身で受け止めて生涯をかけて考え抜くだけの厳しさなくして不可能でしょう。その「厳しさ」という点で、それら事件に対するアメリカ最高裁の姿勢と日本の最高裁のそれとの間には、同じ最高裁という名称ではくくりきれないほどの相違、むしろ天と地ほどの開きがある、というのが実感です。

 もっとも、最近、基本的人権を強調すると、「人権屋」という罵声が飛んできます。表現の自由を強調すると、表現の自由なくして成り立たないはずのマスコミからさえ、そういう罵声が飛んでくるご時世です。そういう罵声を浴びせるのも自由は自由でしょうが、その前に、そういう罵声を浴びせる自由を主張するだけの厳しい自己省察をふまえてみてもいいとは思うんですが(多分、期待するだけ無駄でしょうけど)。

 誹謗中傷、侮辱、名誉毀損がおおっぴらにまかり通る世の中は不愉快です。銃器武器刃物の類、つまりは、人の殺傷を目的として製造され、それにふさわしい外観を有する「凶器」を耽美的に描くような表現が好ましくないのはわかりきっている。性表現にしても、また同じ。――にもかかわらず、歴史に謙虚に学ぶならば、そういう誰もが疑わない「常識」をいいことに、権力者が自己に対する批判を封殺した歴史を無視できないし、そういう歴史を今日の権力者が真摯に反省し悔い改め、二度とそういうことをしないと信頼できる状態に至ったとはとても考えられない。むしろ、「善意」からなる各種の議論を都合よく「つまみ食い」して、自己の邪悪な利益を図ろうとしている、とでも考えなければ説明のつかない事件が後を絶たないことを考えれば、やはり、「好ましからざる表現」=法規制というわけにはいかないのです。

 それに、これまた歴史に謙虚に学ぶならば、ある時代の人が常識とか道徳とか信じて疑わなかったことが、後世から見れば、不合理で馬鹿げた考えだったことなどいくらでもあります。とするならば、われわれが今日、常識だとか社会通念だとか信じて疑わない判断基準、それにてらして不愉快だとか、下品だとか決めてかかることが、本当に歴史の検証に堪えるほどの判断といえるのかどうか。そう考えると、下品で粗野な表現というものは、むしろわれわれの常識とか良識とかいったものを省察するための絶好のチャンスではないか、とさえ思うのです。

 ずいぶん長話になってしまいました。要するに、今、世間で取り沙汰されている規制論議というものには、ひが目かもしれませんが、自己のよって立つ社会通念とか常識とかにべったり寄り添ったままの安直な同情心や上っ面だけのヒューマニズムばかりが透けて見えて仕方がないのです。

 今、この時点で、法律家がある言説(たとえば、インターネット免許制)を吐くことが、どういう効果をもたらし、誰の・どんな利益を規制し、誰の・どんな利益に貢献するのかを考え抜いた上でのことだとはとても思えないし、それを無批判に掲載するメディアもメディアです。人気者がナイフを小道具として持っている場面が問題になれば、放送を中止したり、訳のわからない言い訳で、ほとぼりのさめるのを待つ、というのも同じです。ある場面では被害者の感情を考えろ、と極刑や少年法改正=重罰化・低年齢化を主張しながら、別の場面では、被害者の感情もおかまいなしに「自由な報道」を主張して、どっかの役所(検察庁?)から漏洩だかリークだかわからない「資料」をコピーしただけの「記事」をたれ流す雑誌もまた同じ(それ以上に、権力への擦り寄りのひどさに反吐が出る思いがしますが)。

 あえていえば、そこには、アメリカ最高裁が体現する「厳しさ」とは裏腹の、知的退廃や怠惰さえ感じて仕方がないのです。

 昨今、アメリカとの経済戦争の「敗北」や景気「立て直し」が論壇を賑わせていますが、そんなことよりも深刻なのは、この国を覆うそうした知的退廃、あえていえば、世界が直面する課題から目をそらし続け、戦わずして敗退していることの方だという気がしてなりません。




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