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市民の規範とプロフェッショナルの規範との間で

山口大学経済学部 立山紘毅 (1998.5.29)

(注)これは、5月28日に九州工業大学で開催された電子情報通信学会情報通信倫理研究会における報告原稿に加筆したものである。

はじめに

サイバースペースの語源といわれるSF『ニューロマンサー』〔黒丸尚(訳)ハヤカワ文庫・1986年〕、その作品世界では、電子機器、薬物、臓器の移植、さらには遺伝子の操作といった手法で、人間がその感覚はおろか、存在そのものまで自在にコントロール可能な社会が描き出されている。人間の精神現象もたんぱく質に支えられ、神経生理現象という電気的なふるまいに支配されているというから、たとえ現在はそれらの多くが空想の中にのみ存在するとしても、いずれ、その一部を電子機器が拡張し、代替することも技術的には可能なのだろう。 その一方で、技術的に可能なものを実現しつくした社会が、はたして人類に幸福を約束するのかどうか、この小説は読む者に深刻な懐疑の念を起こさせる。とりわけ、法律学を専攻する者には、この作品世界において、法とかルールとかいうものの存在がきわめておぼろげであることは、少なからぬとまどいを覚えさせる。むろん、同じSFでも、それがどこか遠くの異星のできごとならば、さほど身につまされる話でもない。しかし、小説に占める東京湾岸や日本イメージの大きさを別としても、「サイバースペース」が日常用語と化し、社会のインフラとしての役割を日々高める社会の姿を、いやおうなしに実感せざるをえない時代となると、事柄は「懐疑」とか「とまどい」とかいった主観的な次元の問題ではない。 より積極的に、それら技術のありようについての価値観を探求し、それに基づいたルール作りを、必ずしも専門的な知識の十分でない人々とともに考える必要性が生まれてくる。これは別に、サイバースペースをめぐる問題だけではあるまい。科学技術の先鋭な成果がわれわれの日常生活に密接なかかわりあいをもってくるとき、たとえば、尊厳死、臓器移植、あるいは遺伝子組み替え農作物の安全性問題等々、同様の必要性が生じてくるであろう。 そういった問題に直面したとき、二つの特徴が顕著に現れる。 第一に、その種の問題においては「倫理」なる用語が、本来の用法と食い違った形で・好んで用いられる傾向があることである。一般に、「倫理」とは自律的な規範の一つであり、必ずしも強制力をもたないものを指す。ところが、「倫理」の語が、一定の行為の禁止または制限の根拠ないし判断基準として機能するような用法が数多く見られることである(公務員倫理とか政治倫理とかいう語も、そのような用法が少なくないので、ネットワーク倫理に限った話ではないことも確かではあるが)。 第二に、電子情報通信学会の倫理綱領にも見られるように、内容的に、第一の意味で一般にいわれる「ネットワーク倫理」と異なって、プロフェッショナルを名宛人とするルールが登場することである。また、臓器移植や遺伝子医療で話題となる「倫理」委員会や、そこが要求する「倫理」にしても、普遍的なルールというよりもむしろ、プロフェッショナルを名宛人とする特段のルールであることがほとんどである。 このような「倫理」の語法を「誤用」と決めつけるのは簡単だが、これほど広く用いられているからには、そこにはやはり何らかの理由があるものと考えないわけにはいかない。この報告では、対象を「ネットワーク倫理」に絞って、その特質のいくつかを考察したいと思う。

1. なぜこれほどにネットワークにかかわる「ルール作り」が課題となったのか? ――ネットワーク利用者の構造変化

たとえば大学で、コンピュータ利用者やネットワーク利用者の「倫理」問題が話題となるとき、それはインターネット利用にかかる「倫理」問題とほぼ同義である。そのことは、たとえば、1) スタンドアロンのコンピュータを利用する場合、2) メインフレームやスーパーコンピュータの計算能力等、計算機資源を利用するだけで、端末相互のコミュニケーション機能を利用しない場合、さらには、3) 対外接続されていないクローズドのネットワークの場合と比較して考えてみると、それらの場合、なぜあえて言上げせずに済むのかは明瞭である。すなわち、 1)の場合、コンピュータという精密機器の特性に起因する「利用上の注意」以上には、教室の机や椅子を独り占めしてはいけない、といったレベルの話とほとんど大差はない。 2)の場合、1)よりもやや厳格な「利用上の注意」が必要にはなってくるだろうが、これもまた「計算機資源の無駄遣いはやめよう」といったレベル以上に問題が生ずることは多くないだろう。しかもまた、その種の利用者は、専攻分野、問題関心、知識技量といった点において、かなり同質であることが予想されるうえ、比較的限定された層の人々であることから、問題発生の予測も対処も比較的シンプルであろうと思われる。 3)の場合、1)2)と異なって、利用者相互のコミュニケーション関係が発生するために、前二者より格段に紛争発生の可能性が高くなると予想される。しかし、2)と同様に、利用者は比較的限定された同質性の高い人々である場合が多いため、かりに問題が発生したとしても、ネットワークを経由しない経路を通じた情報によるコミュニケーションの補完、ネットワーク外での紛争解決システムが機能することが期待できるため、これもまた、あえて「ネットワーク倫理」などと言上げする必要は小さいであろう。 もっとも、3)の場合、いかにクローズドであったとしても、その利用者が不特定多数性を強く帯びれば帯びるほど、また、利用者間に競争関係が強ければ強いほど(=各々の利害が相反する度合が高ければ高いほど)、紛争発生の可能性と解決の困難さの度合は高くなることが容易に予想できる。それが、さらに大規模化し、地球を覆う規模に達したとき、それら危険が、想像を絶するほどの水準に達することは明らかである。しかもそこには、一方で、ネットワーク社会に日々新たな価値を導入し、より豊かな社会をもたらす可能性をもつ(それゆえ、敵視する必要はまったくない)一方、一律に行動を規律することを著しく困難ならしめる「価値の多元性」ないし「多様性」という難物が横たわっている。 結局、ネットワーク利用上の倫理問題と称するものは、その実、利用者間のコミュニケーション関係に由来するトラブルであって、決してコンピュータやネットワークが「魔性」を抱えているがゆえでないことは明瞭である。もっとも、それらがハイ・テクノロジーの産物で、一般には今なお「敷居の高い」存在であるがゆえに、何かそれらが本質的に魔性を抱え込んでいるような受け止め方がなされていることもまた事実である。それらが世上見かける「インターネット無法地帯論」の温床ともなっているが、そこでは「偏見は無知から生まれる」という心理学上のテーゼをいやでも想起せざるをえない。 もっとも、事態をさらに面倒にしているのは、利用者が増加したとはいっても、その利用者の合計は国内で571.8万人、すなわち人口の3~4%程度に過ぎないうえ、サイバースペース・ジャパン(株)の利用者実態アンケートでも、利用者像は「大都市とその近郊に住む、25歳から35歳程度の、情報関連企業に勤務する技術系の男子会社員」が最も多い、というデータがある。また、いささか卑近な例でいえば、大学においても電子メール・アドレスの全員配布が常識となりつつあるが、その動作原理についてのアウトラインは、学生のみならず指導を行なうべき教員の側にも十分知られていないのが実情である。すなわち、各種の法規制論議が、立法事実に関する認識も知識もないまま、漠然たる印象だけで行われている、というお寒い実態さえ存在するのである(たとえば、電子メールの匿名の高さが規制論議の一つの「根拠」としてしばしば引き合いに出されるが、匿名郵便の脅威は、英語にも「black mail」という言葉が厳然と存在するように、何も電子メールの専売特許ではない)。 インターネット参加者がこれほど爆発的に増加したことの理由は、いろいろと数え上げられるが、その一つに、オープンで対等平等性が高いネットワークであることを指摘する向きも多い。しかし、その特徴は、かつて理工系研究者を中心とした比較的クローズドで同質的な参加者、すなわち、相手方に対しても性善説を前提とした振る舞いを高い蓋然性で期待できることをベースとしたネットワークであったことに由来する。 そのような同質性が生んだネットワークの魅力が人々を引きつけ、結果的に、その魅力のベースであった同質性を掘り崩すというのは、皮肉というほかはない(ネットワーク利用者の構造変化が、「倫理問題」の根底にあることを指摘したものとして、さしあたり、名和小太郎「インターネット環境と倫理」bit 1997.10、5頁以下、村井純+インターネット弁護士協議会(ILC)『インターネット法学案内』〔日本評論社・1998年〕72頁以下)。 かてて加えて、商業利用の解禁は、さらに多くの人々をネットワークへ引きつけるが、「ビジネス関係者はむしろ性悪説の上に立って行動」(名和・前掲7頁)しているし、それを規律するためのルールもまた「『人は何をしでかすかわからない』という不信……『信頼の体系』から『不信の体系』を基礎としなければならなくなってきている」(村井+ILC・前掲78頁)。そのような状態に立ち至った空間では、手放しのまま「しつけのよいアナーキズム」が存立できると考えることはきわめて難しい。むしろそれは、さまざまな資源を動員し駆使しうる人々に対して、それをなしえない人々からあらゆるものを奪い取る「自由」を保障するだけのものに転落しかねない。つまり、「『しつけのよいアナーキズム』を『しつけのないアナーキズム』に変えてしまう」(名和・前掲7頁)懸念を増す。その一方、社会的なコントロールや法的な規律が、その対象に対する認識も知識も欠けたまま行われようとしている、という別の問題も横たわっているのである。

2. プロフェッションをどう理解するか

医師、弁護士、高度の専門技術者等、高度の知識と技能を有し、それを理由として高い社会的プレステージを得る人々をプロフェッション(profession)と称するが、高柳信一はその職能の特質を次のように要約している。「専門職能の従事する業務は、答えがすでに出ている仕事を型通りに実行するタイプのそれではなく、むしろ、正しい答えはなんであるか、或いは、業務の受け手にとって最善の解決は何であるかということを、専門的知識・創造力を駆使して追究し発見することを目的とする業務である」「したがって、……専門的能力をもたない使用者……がかれらに特定の答えをおしつけ、その具体化を強制するなどというようなことがあってはならない……かれらは、長期の修練によって習得し、たえずさらに発達せしめようと努めている専門的知識に忠実でなければならず、外的な干渉に拘束されないという意味で、自由でなければならない」(高柳『学問の自由』〔岩波書店・1983〕71-2頁) もっとも、ある社会が近代立憲主義のシステムをもつ場合、いかなる「自由」といえども、「特権」を享受する「自由」であってはならないことはいうまでもない。したがって、そのような特質にもとづく特殊な「自由」であるために、プロフェッションが公衆の利益を守るべき存在であることを実証し続けねばならないし、それと表裏一体の関係にあるが、プロフェッションは、個人としても集団としても、それ以外の者に比べて厳しい行為規範に服するのが通例である。これは一面で、程度の差はあれ、どんな職業においても存在する職業規範と共通であるが、それ以上に、専門職能者集団は自治的な組織をもち、それを基礎とする・一般市民よりも厳しい行為規範を明文化するだけでなく、その履行を確保するために一定の制裁機能を備えていることが多い(たとえば、弁護士会の懲戒処分)。しかも、それら専門職能者集団の行う制裁に対しては、裁判所といえども、法体系と明らかに矛盾するものでないかぎり、一定程度尊重するのが常である。 そこでの問題は、なぜ、そのような集団に、何らかの意味で一般の市民間におけると異なる規範関係を定立することが正当化されるのか、という問題である。すでに述べたように、その正当性が職務の特殊性に由来するのは確かであるが、反面、そのような専門職能者の集団は同質的であり、利害が一致しやすいだけに、一つ間違うと、互いに身内の利害をかばい合う集団と化し、特別の規範関係もまた、それに都合の良い形に変形される可能性は常に存在する。 コンピュータ・ネットワークの場合も、その専門家や技術者集団に対して、何らかの特別な規範関係が必要なことは不可避といえる。たとえば、どのように理解しようと、ネットワーク利用の自由のうちに、コンピュータ・ウィルスを作成し配布する自由や不正アクセスの自由を認めることはできない。しかし、社会的なインフラとしてネットワークを提供し、それを管理・運営する専門家集団の場合、まさにそのネットワークの品質や性能を維持し、その安全性を確保するために、コンピュータ・ウィルスや不正アクセスに関する知識を、むしろ積極的に提供し、研究・教育し、場合によっては、それらを実践してみることが必要とされることもありうる。もちろん、そのような場合、そういう行為が許される人的な範囲をどう確定し、その範囲の人々に対する特段の行為規範と、それに違反した場合の制裁をどう定めるかは難しい問題である。 さらに、広く一般利用者には許されないその種の行為が、なぜ特定の人々には認められるのかについて、説明責任が生ずることも間違いない。その種の行為が、本質的には公衆に奉仕する任務をよりよく果たすために行われるものであるとしても、その必要性と効果について公衆に明らかにすることなしには、公衆の不信を招くことになるばかりか、知らず知らずのうちに専門家集団に一種の特権意識を芽生えさせ、取り返しのつかない失策の素地を生んでしまうことも懸念しなければならない。「キャリア」と呼ばれる特権的な官僚組織の失策と頽廃は、その意味で、ネットワーク社会の専門家集団にとっても、十分「他山の石」とするに足りるのである。

 

3. ネットワークをどのような法関係によって構成するか

法的諸問題というときに、法律家は、国家によって制定され、その履行が確保される国家法に関心が集中しがちである。しかし、実際の社会生活において、人の行動を規律するルールとか規範とか呼ばれるものは、国家法に限られているわけではない。その人の生活関係の広さや範囲に応じて、さまざまのルールが複合する中に生きている。たとえば、自然的な共同体である家族のルールや友人・知人関係のルール、人工的・合目的的な共同体である学校、職場のルール等、それらはさまざまである。もしもこれらを国家法に一元化しようとする試みがあったとすれば――歴史上、ナチス時代にはそれに似た試みが存在したが ――それは恐るべき圧制とほとんど同義語である。昨今、「インターネット無法地帯」論を理由として、さまざまな形の法規制論議が行われているが、そこには、解決を必要とする問題状況が存在することの認識がただちに国家による法規制を正当化するという論理に飛躍があること(あれこれの問題状況に対して、国家による法規制が唯一・万能の手段であるわけではない)、そもそも、あれもこれも国家による法規制という、規範秩序の一元化そのものが重大な問題性を抱えていることを見落としてはならない。かてて加えて、ネットワーク上の行為は、思想・良心の自由および表現の自由という、憲法上、もっともデリケートで慎重な扱いを必要とする基本的人権の行使と直接関連していること、しかも、現代の言論状況の中で、広く市民が情報発信するメディアとして、接近の容易さと伝達力の双方において、インターネットに匹敵するメディアが今のところ考えられないという重要な特性をもつ(村井+ILC・前掲31頁参照)ことを忘れてはならない。 その一方、国家法による規律をあらゆる局面から追放せよ、と唱えることは、現実に存在する力関係の赴くまま、弱肉強食を放置せよ、と唱えるに等しい効果を生む。特に、現在のように、商業利用が全面的に解禁・拡大する趨勢の下では、ネットワーク社会が経済権力の力に蹂躙される懸念も現実のものとなっているだけになおさらである(たとえば、著作権ビジネスが、著作物の「公正な利用」を圧迫しつつあることは、すでに現実問題となっている)。「規制緩和」の言葉は、現在の閉塞状況に対するアンチテーゼとして魅力あるフレーズであることは事実だが、それを万能の妙薬のごとく論ずることには、これまた恐るべき危険が伴っていることを見落としてはならない。国家のもつ強制力をどのような局面で発動させるべきかは、この両面から慎重な配慮が必要であるし、現在唱えられている法規制論議や規制緩和論議には、そういう配慮を欠いたものが少なくない。 広く一般のネットワーク利用者にしても、そのような問題状況に対して、自己の意見を述べ、批判し、異議を述べる権利があることはいうまでもない。一方、ネットワークの専門家およびその集団の場合には、どう考えるべきであろうか。異議申立の権利または自由がある、という意味においては、これは一般のネットワーク利用者と何ら異なるものではない。しかし、ネットワークの特性と限界とを誰よりも知悉した専門家の場合、はたしてそこにとどまることで十分といえるのだろうか。むしろ、そのような場合、日頃修練した知識や技量に基づいて、無理は無理、背理は背理とはっきり述べることこそ、専門職能者のしたがうべき規範の命ずる責務とはいえないだろうか。 ただし、たとえば、専門家がその見識にしたがって国家法の要求を無理あるいは背理と述べることには、強い緊張感が伴うことを見落としてはならない。たとえば、警察庁が提案する不正アクセス防止法のような法律において、電子メールを含むサーバー・ログの採取と管理は、システム管理の要求から導かれる合理性や最小限必要性をこえて、できうるかぎり長期に・かつ包括的なものを要求されることが予想される。むしろ逆に、ネットワークを流れる通信は、ある時間軸の中で、ある経路を合流して流れるものであるから、通信を特定して監視することが難しく、スクリーニングするにせよフィルタリングするにせよ、包括的な監視なくして監視・記録は成立しにくい、という事情もある。したがって、ネットワーク従事者の職業規範は、そうした事項を知りうる立場にあったとしても、それらを見て内容を開示することを禁ずるものでなければ、利用者のプライバシーや通信の安全性は維持できない。ところが、上述の不正アクセス防止法では、捜査への協力義務等も盛り込まれている(ドイツのテレコミュニケーション法が、捜査への協力義務を盛り込んでいることを忘れてはならない)から、問題が発生した場合、包 括的なサーバー・ログの開示を求められる可能性が高いといわざるをえない。事実、図書館における利用者の貸借・利用記録は、図書館職員の職業規範のうえで「絶対に公開してはならないもの」とされているにもかかわらず、オウム真理教事件の捜査を理由として、包括的に50数万人分の利用記録が押収された事例が、図書館関係者に衝撃を与えたことが知られている(逆にいえば、現在、多くの公立図書館では、図書の貸出閲覧記録は、返却と同時に消去する取り扱いがなされているが、電気通信でこの種の監視が当然とされるならば、図書館におけるそのような取り扱いにかえて、貸出閲覧記録の保存・管理と開示が法制上要求される、という逆照射さえ懸念されることに注意されたい)。 このような場合、ネットワークの専門家のなすべきことは、そのような監視・記録が無理であること、それを行なうことは市民のプライバシーや通信の安全性を損なうこと、したがって自らの服すべき職業規範に反することでなければならないが、もしも上述の法制が成立したならば、そう主張して公安当局や捜査当局の要求を退けることは、刑罰による処断さえ覚悟しなければならない事態が予想される。それだけならまだしも、たとえば、通信事業者の中には、市民運動を背景としているものさえ存在する。そのような事業者の場合、包括的な監視・記録とその開示は、すなわち「仲間を売れ」という要求とほとんど同義語である。マッカーシズムの関係者がどのように言い訳しようと、informer(密告者)とかinformant(内通者)とかいう言葉には、今日あまり語られることのない「情報」(information)という言葉の、もう一つの・暗い側面が反映されているが、そのような行為を、国家への忠誠に殉ずる英雄的行為と賞賛する社会は、ナチズムやスターリニズムの時代や社会に典型的に見られるように、社会そのものが治癒不能の深い病に侵されているといわざるをえない。そして、そのような時代や社会において、「 仲間を売る」ことを潔しとせず、自らの生命を断った人々がいたことも銘記しておかなければなるまい。 1986年、ある新聞社の社長は、新人記者たちに対する訓示として、過去の言論抑圧と戦争の時代に自らがジャーナリズムの本筋を果たすことのできなかったことを反省しつつ、「諸君が入った会社は、真実を曲げることを強要されるときには、筆を折る、すなわち死を選び取る気概をはらんだ会社であることをしっかりと頭に入れておいていただきたい」と述べた。この言葉は、ジャーナリストというプロフェッションが抱える規範の重さというものをよく言い表しているが、職業規範にとどまらず、ある人が自らの思想や信条・世界観の命ずるところにしたがって国家法に抵抗するとき、そこには「悪法は法なりや」という難問中の難問が横たわっている。それは法哲学的に解決の困難な問題であるだけでなく、人の生命を維持することを善しとするか、あえて生命を絶ってまでも正義を貫くべきなのか、という深刻な問題さえ抱えている。この問題を考察したある憲法学者は、「結局のところ、……各個人が、具体的な場合について、対決し、解決するよりしかたがない……ここに提起された具体的な問題に直面した各人が、まったく個人的に、もっぱら彼みずからの全責任において、それに対する答えを決定しなくてはなら ない……神の前にひたすらにひれふすことをやめて、自主的にものを考えようなどという思い上がりにとりつかれた近代人は、かような懐疑からついに解放されることのない宿命を負っているのであろうか」(宮沢俊義『憲法Ⅱ(新版)』〔有斐閣・1974年〕175-6頁)という言葉でその苦悩をしめくくった。初等教育における「道徳」科などでは「きまりを守りましょう」といった「徳目」が掲げられており、各種の「倫理綱領」において「法令の遵守」ということが掲げられるのが常であるが、その内実は、これほどに重く深刻なものなのである。 国家法が要求する義務と異なって、職業規範が要求する義務ないし責務には、強制力や制裁を欠いているから、いわゆる「noblesse oblige」の性格を強く帯びる。しかし、一般のネットワーク利用者と異なった性質の行為規範や規範関係が、それら専門職能者の集団に認められるとするならば、そして、それが単なる身内の論理ではなく、広くネットワーク市民の支持の中においてのみ正当性を獲得しうる性質のものであるとするならば、そのような責務を果たすことこそ重要だ、ということになるのではないだろうか。ただし、そこには上述の深刻が横たわっているのであるが。してみると、いささか功利的な観点ではあるが、インターネットというものが、先に述べたような憲法上の重要な特性をもつものであり、その特性をさらに発展させるところに、人々の幸福があるとするならば、両者の間に、問題状況に対する認識とその解決策をめぐる自由な討論と知識の共有とが存在すること、何よりもネットワーク社会のよって立つべき価値について共通の理解をもつこと、それが不可能であるとしても、そのことに関して討論のフォーラムを相互に共有することが、そのような方向性を発展させる重要な要素ではないだろうか 。 その意味で、名和・前掲9頁が、情報処理学会倫理綱領を、「社会人として」「専門家として」「組織責任として」の三つのモジュールから構成した、ということの指摘は重要である。もちろん、本人が述べるように、そこにはまだ各ルール間の整合性に問題はある。それゆえに、「どんな事例が出現するのか予測できないため……残された問題が現実に生じた場合には、個別に検討する」(同・9頁)必要があるし、そうした実例の中から、新たな議論を発展させる必要性があることはいうまでもない。

むすびにかえて――若干の実践例から

最後に、いささか我田引水に属するかとも思われるが、報告者の本務校である山口大学における最近の実践例について話題に供し、ご批判を仰ぐことで、この報告をしめくくらせていただきたい。 末尾に掲げた文書は、1997年夏、ネットワークに接続されたコンピュータを利用していた学生による不祥事が2件連続して発生したことを契機としてまとめられたものである。あらかじめ高邁な理想を掲げて、このような運用をスタートさせたのではなく、不祥事に対する外部からのクレームに困惑したことを契機としたことに、いささかの恥ずかしさはある。しかし、同種の事例が各地で続発することに対し、自由利用の規制や監視、処罰といったルール作りが目立つ中で、ネットワーク利用がよって立つべき価値を、憲法上の精神的自由権の行使においたこと、加害行為の発生防止と被害の発生を防止することの必要性が重要であるとしても、それらは「監視・処罰」によって達成するのではなく、「指導・教育」によって達成すべきことのコンセンサスを確立したことは、誇るべき成果であったと考える。 その上で、ネットワークというインフラの提供者であり、本学における第一の専門家集団である総合情報処理センターの責務に関して、一方で免責の余地を広く認めつつ(2(1)、3(1))、一時的停止の権限(3(4)、3(5))と同時に、モラルパニックに襲われた他部署からの申し出等を拒否する権限(3(2))といった強い責任をともなう行為を求めた点に、他大学における同種のルールと比較した特色を見いだすことができるのではないかと思う。しかも、このガイドラインは、本来、情報処理センターの運用にかかる内部文書に近い性格をもつものではあるが、事柄の重要性に鑑み、総合情報処理センター運営委員会・管理委員会と各部局の教官会議のオーソライズを経て、いわば全学的なコンセンサスの上に成立したことも、あるいは特色の一つに数えることができるのではないかと思う。

もちろん、いかに集中した議論を経ているとはいえ、半年足らずの間の議論に基づくものであるうえ、見落としは多々あろうと思う。しかも、自己責任を求めるべき一般利用者たる学生に対して、どのような行為規範を求めていくか、さらに、その学生に対して指導・助言を行う教職員に対してどのような行為規範を求めていくか、という問題がまだ残されている。とくに、学生に対しては、情報処理概論をほぼ全員に必修化することにともなって、共通教育において使用するテキストの冒頭に、そのことに対する言及を若干強化したものの、はたしてそれで十分といえるかどうか心もとないし、教育・指導の任にあたる教職員に対していかなる行為規範を求めていくかは、いまだ手つかずのまま残されている。とはいえ、ネットワーク社会の最先端を切りひらくとともに、その社会におけるリーダーシップを担うべき学生を教育する任を負う大学としては、けっしてその責任を逃れるわけにはいかないと考えるのである。

ネットワーク上の倫理に関する事件・事故に対する山口大学総合情報処理センターの対応について(ガイドライン)


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