TOP since 1997.1.7

東芝クレーマー事件の問題*1の核心

1999年8月5日 亜細亜大学法学部助教授 町村泰貴

 

はじめに

福岡の一会社員Akky氏が購入したビデオデッキの再生不適合に端を発し、WWWに東芝側のクレーム応対ぶりを音声入りで公開した事件は、多くの人の注目を集め、マスコミをも巻き込む騒動に発展した。この事件は、インターネットというコミュニケーションの道具が普通の市民と大企業、マスメディアのこれまでの力関係を大きく変える可能性を持っていることをまざまざと示したものだ。

そのことは同時に、これまでの社会関係が前提としてきたルールのあり方も再検討せざるを得ないことを意味している。もちろんインターネットという新しい通信手段の特性やアクセス可能性の広がりから、ルールの見直しが必要な分野は多方面に及んでいるが、特に東芝クレーマー事件では、以下の三点が検討課題として浮上した。

(1) 紛争の一方当事者が、自らの主張をインターネット、特にウェブを使って一般公開するという行動様式の是非、限界

(2) 仮処分や訴訟によってインターネット上の表現行為に対抗することの是非

(3) インターネットによる表現行為に対しての陰湿な嫌がらせとセルフガバナンスの可能性

東芝クレーマー事件は第1の問題が中心的課題だが、第2の問題も無視できない。東芝とAkky氏との問題だったところが、東芝側がウェブページの一部削除を求める仮処分を申し立てると、これに対する極めてネガティブな反応が巻き起こった。そこには日本人の裁判に対するイメージやネットワークのオートノミー願望が見え隠れするように思われる。そして第3の問題は、これまでも折に触れて現れていた日本社会の幼児性とネットワーク社会の理想とのギャップを示すものだ。

注 *1) 東芝クレーマー事件というのは、Akky氏が公開した録音テープで、東芝の窓口となった部署の社員が「お宅はクレーマーっちゅうの」と言い放ったことに起因している。

1 インターネットを通じた紛争の一般公開

(a) ごく普通の個人が自己の主張を世間に訴えたいというとき、従来は新聞や週刊誌、放送局などのマスメディアによって記事にしてもらもらったり、投書するという方法があり得た。メディアが取り上げてくれない場合には、口コミやビラ配布、立て看板、街頭署名や街頭演説、あるいは賛同者を募ってデモをするといった手段で訴えていくしかなかった。

このうちマスメディアに頼る場合には、マスメディア自身のスクリーニングがあり、少なくとも建前上は、ありふれた私人間のもめ事がニュースバリューを持つことはなく、なんらかの公的関心事(例えば背景に社会問題があるとか、多数の類似紛争があるとか・・・)に結びついていることが必要であった*2。投書欄の採用基準はよく分からないが、限られた紙面では掲載のチャンスはかなり少ないと思われる。また記事や投書の表現方法にせよ事実の確認にせよ、明らかに問題となるような内容は排除されることが期待できた*3

これに対してマスメディアに頼らない、自ら直接情報を発信していく方法は、これまでその伝播力は小さいのが通常だった。ところが、ウェブによる個人の情報発信は、このような限界をうち破った。理論上は全世界のネットワーカーがダイレクトにアクセスできる場所に、事前のコントロールなしに、個々人が自己の意見を表明できるようになったのだ。そして東芝クレーマー事件のAkky氏のウェブページは、そのことをまざまざと示した点で象徴的な事件だ*4

このことは、一面では表現の自由を個々人が現実に手に入れた点で高く評価できる。

しかし他方、もともと表現行為がもっていた危うさが顕在化し、先鋭化していくことに注意しなければならない。一言でいえば他人の権利を侵害するような表現行為がストレートに表にでてしまう危険性である。マスメディアは曲がりなりにも取材力を持ち、表現や個人名の公開基準などの配慮にも蓄積がある。対して個人がダイレクトに意見表明する場合には、そのような蓄積がなく、問題を引き起こしてしまう可能性が大きい。

(b) 東芝クレーマー事件のように私的なもめ事をインターネットで公開する場合*5も、個々人がダイレクトに情報発信できる環境の危うさが増幅される。紛争の一方当事者からすれば、相手方の主張は不当で間違っていると考えるのが通常なので、そのような主張が世間に公開されることは自分に対する誹謗中傷に他ならないように見えることだろう。

 それのみならず、私的紛争が持っている私事性と公事性とのアンビバレンツを露呈させるという側面も見逃せない。

すなわち、私的なもめ事であっても、その解決が法的なものとなりうる限り、公的性格が常につきまとう。解決に当たってなされた法の解釈適用、訴訟となった場合にはその訴訟手続の進行、裁判所の対応、弁護士の対応が公的関心事となる。また消費者トラブルや大きな事故であれば、多数人が共通の問題に直面する可能性があるという意味で公的関心事だ。当事者の性質によっても、行政庁であれば当然、私企業でもある程度規模が大きく、従って社会的に影響力がある企業、法的に公正な業務が要求されている企業・事業者なども、業務に関するもめごとは公的事柄である。さらに、純然たる個別のトラブルでも、その解決には正義にかなっていることが必要で、正義を求める一方当事者の主張は常に公的問題となりうるものだ。

他方、私的なトラブルは当事者の私事であって、本質的にプライバシーの領域に属することも否定できない。自然人はもちろん、行政庁を除けば法人でも、もめ事を公にしないで解決したいと希望することは一応正当である。ただしその希望が法的に権利として要求できるかどうか、相手方の意に反して一方的に公にすることが違法と評価されるかどうかはまた別問題である。表沙汰にせず、穏便にことを済ませる利益が保護に値するとしても、それはもめ事を公にする利益と比較衡量されなければならない。プライバシーの領域に属するとはいえ、もめ事の性質*6や公になった場合のリアクション*7などの事情が特にあればともかく、そうでなければ公開の下での紛争解決を求める利益を排除してまでも隠す利益を保護すべきとはいえない。

もちろん紛争状態にあるからといって相手方を根拠なく誹謗中傷することが適法となるわけではなく、違法な表現行為に及んだ者が法的にサンクションを受けることは当然である。あくまで適法な表現行為であれば、訴訟上の書類はもちろんのこと、訴訟外の交渉過程であっても、非公開とする約束を特にしているのでない限り、インターネット等を通じて世に問う行動は許されるべきである。

なお、企業に対するクレームを世に問うことで譲歩を勝ち取ろうとする行動は、見方を変えると企業に対する恐喝行為であって、総会屋や企業ゴロと呼ばれる連中の常套手段でもあった。私的もめ事をインターネットによって一般公開することが許され、しかもこれに対する反応が予想を超えて大きいのだとすれば、このような企業テロ的な利用につながるのではないかという懸念も当然ある。しかしながら、このような連中が利用できるという理由で、普通の市民がインターネットを通じて情報発信することを否定するのは本末転倒というべきだ。企業に対する民事介入暴力対策の基本は、不当な要求に屈することなく、法的対抗手段を堂々ととり、つけ込まれる弱みがあったとすれば、その原因を正面から処理することだ。総会屋が業界紙を売りつけてくるからといって、雑誌発行を規制するというのは本末転倒であるのと同様、インターネットによる情報発信が企業に対して大きな脅威となりうるからといって、情報発信を規制する方向に進むのでは、結局臭い物に蓋式の解決となってしまうだろう。

*2)もちろん現在のマスメディアがそのような建前を守っているかどうかは別問題である。三浦和義事件にせよサッチー騒動にせよ最近の保険疑惑事件にせよ、公的関心事であるというよりも無理矢理公的関心事に仕立て上げるという方が適切な事例がよく見られる。

*3)とはいえマスメディアの中にも、誰も自分の新聞を信用しないはずだから、あることないこと書き立てても別に名誉は毀損されないと大まじめに主張するところがある。その一方では差別語に関する予防措置のように、問題が起きないためのマニュアルで盲目的に対処し、問題の本質を見誤っているようなケースもあるので、マスメディアのスクリーニングがあればよいというつもりは全くない。

*4) Akky氏のページのアクセスカウンターを信じる限りは、のべ700万回以上のアクセスがあったことになる。ただし、週刊ダイヤモンドがこの問題を取り上げるまでは160万回のアクセスにとどまっていて、この数字自体も驚異的ではあるが、それから1ヶ月少々で何倍にもなっていることからすれば、ネットワークだけのアピール力はやはりマスコミの力には遠く及ばないともいえる。

*5) 紛争の当事者がインターネットを使って自らの正当性を訴え、訴訟資料も公開している例は以下のようなものがある。

また次のものは紛争の当事者というよりは第三者の立場で、応援団的な主張をしているものだ。

以上は主として裁判となったケースに関するものだが、以下は企業に対するクレームや悪徳商法告発のページであり、多くは掲示板を用いて情報交換がなされている。

*6) 例えば家族法領域のもめ事や少年の育成に関するもめ事などはすぐれて保護の必要性が高い。

*7) エイズのように差別を引き起こす現実がある場合が典型的だ。

2 インターネット上の表現行為に対する差止仮処分・差止訴訟

(a) ところで、東芝クレーマー事件では東芝側がAkky氏のウェブページの一部差止を求める仮処分を申し立て、これに対してインターネット弁護士協議会代表の牧野二郎弁護士をはじめ多数の批判*8が寄せられたため、申立書がAkky氏に送達される前にあわてて取り下げるという一幕があった。仮処分申立が政治的に大変まずい選択であったことは疑う余地がない。Akky氏のウェブとその反響をマスメディアが取り上げ、大企業に立ち向かう一消費者という図式が醸成されていた時点での法的対抗措置であり、世論を一挙に敵に回す効果があった。

しかし政治的な、あるいはタイミング的なまずさは別として、はたして仮処分申請は本当に不当なものであったのかどうか、検討してみる必要があろう。ウェブページの削除や公開停止を求める仮処分や、ネット上の表現を理由に損害賠償を求める訴えが一般的に許されないとする理由は存在しない。その例は、海外はもとより我が国でも次第に見られるようになってきた*9。それでは特に東芝クレーマー事件で、仮処分申立を否定すべき理由があるだろうか?

先の牧野弁護士の批判では、以下の諸点が指摘されている。

(1)「仮処分申請」という形で、言論の封殺を図っている点

(2) A氏のホームページを閉鎖しなければならない理由は何もなく、事実を事実として述べ、批判する自由は、最大限に保護されなければならない点

(3) 病める巨象に、勇気あるアリが立ち向かっているとする点

まず仮処分申請は言論の封殺なのかどうかという点だが、一般的にはそのように位置づけることはできない。例えばフランスのアルテルン・オルグ事件では、プロバイダが会員のページの違法を理由に巨額の賠償と、一審では差止も命じられた。確かにプロバイダがこのような責任を追及されれば、萎縮効果から私的検閲へ走ることになり、ひいてはネットワーク全体の萎縮効果につながる。結果的には言論封殺という事態にも発展しよう。しかし東芝とAkky氏のケースでは、情報発信者本人に対して直接法的手段をし向けているのであって、プロバイダに対する責任追及について懸念される萎縮効果は存在しない。もちろん情報発信者が法的追及をおそれずに自由に表現方法を選択することに対しては圧力となるが、情報発信者自らが他人の権利侵害をしないように気を付けることはむしろ当然であろう。

仮処分申請が言論封殺であるという牧野弁護士の議論の前提には、(3)の比喩的表現で明らかにされているように、当事者間に力の格差があるという認識と、東芝の不誠実な対応を指摘しているように仮処分申請以前の段階での交渉が不十分であったとの認識があるように思われる。確かに大企業と一消費者とでは訴訟追行能力に格差があることは事実であろう。普通の市民が訴訟沙汰に対して心理的に違和感があることはしばらく置くとしても、弁護士に対するアクセスの困難、裁判所の人的物的設備の乏しさに起因する訴訟遅延、訴訟や弁護士にかかる費用負担が明確でないことなど、顧問弁護士を抱え、費用は損金として税務上有利になり、かつ訴訟についてリピートプレーヤーでもある企業と比較すれば、一市民にとって訴訟追行のための負担はあまりにも重い。

個人的には私も、分かり難く使いづらく、専門家のサポートも受けにくい中で応訴を強いられるAkky氏にとって、仮処分申請は強すぎる圧力ではないかと心配していた。しかしそれでは企業が消費者を相手に訴えを提起することが常に不当と評価されるのだろうか。訴訟追行能力の格差の問題は、訴え提起を選択した者の責任ではなく、格差を導く司法インフラの貧しさの問題なのである。このことをもって裁判という道を選択した者を責めるのは、お門違いというほかはない。もちろん、このような格差を奇貨として言論封殺を図ろうという主観的意図が東芝の側にあったのであれば、それはそれで非難に値するが、そのような断定はできるのであろうか?

また仮処分申請に至るまでに十分な交渉がなされたか、交渉努力をしたかという問題は確かに重要だが、東芝の説明とAkky氏の説明とを見比べてみても、直接交渉の試みは何度かなされたように思われる。Akky氏の側からすれば、不十分であったと言えようが、東芝の主観的認識としては既に交渉が行き詰まっていたと判断しても不思議はない。

最後に(2)であるが、これこそ仮処分命令手続において、あるいはその後の本案訴訟において審理判断すべき事項であって、仮処分申請それ自体に対する批判にはならないであろう。もっとも相手方を害することを目的に全く根拠のない訴えを提起することは、それ自体不法行為となりうる*10が、今回のケースでは残念ながら仮処分申立書が公開されておらず、その意味でも全く筋の通らない申請と決めつけるはいかがなものであろうか、疑問である。

(b) むしろ、今回のようなケースで訴訟・仮処分という手段を選択したのは、公明正大と評価する事も可能だ。この事件にどのような対応がありえたかを考えてみよう。

  1. やくざを使って相手方に電話をかけさせ、黙らせる。
  2. クレーム主の勤務先と上司を割り出し、圧力をかけて黙らせる。
  3. 密かに裏金を渡して黙らせる。
  4. 内容証明や訴状・仮処分申立書を送りつけて裁判の場で解決を図る
  5. 調停や第三者の仲介を求めて解決を図る
  6. あくまで自主交渉で解決を図る
  7. ネットワーク上で反論する
  8. 全面的に非を認めて謝罪する

総会屋と切れない企業体質の会社であれば、1.2.のいずれかと、3により解決を図ることが常態であった。そのような対応こそは言論の自由の封殺であり、なんの正当性もない。それと比べれば、4.は、総会屋に唯々諾々と支払いをするような企業文化とはずいぶん違う、公明正大な選択肢と評価できる。これに対してネットワーク上の異議申立に対してはネットワーク上で答えるべきで、7の道をとるべきだという見方もあり得よう。しかし今回のケースでは東芝がホームページ上に会社の見解を載せており、そのこと自体、画期的なくらいだ。そして議論の場をネットワークに求めるのも求めないのも当事者の自由な選択に任されているのであって、そうした道をとことん突き詰めなかったからといって非難には値しない。

逆に、仮処分に対する世間の風当たりの強さは、日本社会が未だに引きずるプレモダン性を露呈させたものではないかという懸念を禁じ得ない。思い起こすのは隣人訴訟として有名なため池子供溺死事件だ。隣人に子供を預けて買い物に行き、帰ってみたら預けたはずの子供がため池で溺れ死んでいたという不幸な事件で、その後の交渉がうまく行かず、また弁護士が調停という道を考慮することなく、損害賠償訴訟に発展した。判決*11は預かった側の親に263万円程度の損害賠償を命じるだったが、この判決がマスコミにより「隣人の好意に冷たい裁き」というトーンで報道されると、原告宅には脅迫電話が殺到し、たまりかねた原告は訴えを取り下げた。ところが被告が取下げに同意せず、そのことがまた報道されると、今度は被告宅に「お前は人殺しだ」式の電話手紙が殺到し、ついに訴え取下げに至った。

この事件には日本人が潜在的に抱いている訴訟制度への違和感が如実に現れていて、とかく訴訟という手段を選ぶと英雄扱いされたり変人扱いされたり、はたまた脅迫者扱いされたりする。しかしそれだけではこのようなヒステリックな反応に至るものではない、心理的な違和感に加えて、紛争に白黒をつけずに蓋をする体質、表沙汰にしないで裏で、カネで解決しようとする体質、あくまで権利を主張する者は和を乱すとして制裁を加えるという体質があるのだ。この体質はさらに紛争当事者として表に出た者に対し、無言電話や非難の手紙など陰湿な嫌がらせをする態度にもつながっていくものだ。

結局のところ、東芝が謝罪したにもかかわらずなお権利主張を続けるAkky氏に対して冷たい目を向け、さらには嫌がらせをするという対応と、仮処分自体を嫌忌する態度とは、共通の基盤がありそうである。

*8) 批判の典型例として、牧野弁護士の声明があげられる。「東芝に対し、節度あ る行動をとることを求める」(1999年 7月16日)
http://www3.justnet.ne.jp/~ilc/toshibavtr/
video1.htm
参照。

*9) 最近の例としては、フランスのアルテルン・オルグ事件がウェブの差止を求め た例として有名である。町村泰貴「アルテルン・オルグ事件」法学セミナー1999年5 月号、TGI Paris, (ref), 9 juin 1998 et Paris, 10 fevr. 1999, Droit de l'informatique et des telecoms, 1999/2, pp.49 et s. 国内の例としては、ニフテ ィ名誉毀損事件(東京地判平成9年5月26日判時1610号22頁)、スパム差止仮処分事 件(浦和地決平成11年3月9日 
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/doc/ juris/udcd-h11-3-9.htm)、チャットログ無断公開事件(東京地判平成9年12月22日判時 1637号66頁)、BBS実住所暴露事件(神戸判平成11年6月23日
http://www.asia-u.ac.jp/~matimura/hanrei/pcvcase/)が挙げられる。

*10) 最判昭和63年1月26日民集42巻1号1頁

*11) 津地判昭和58年2月25日、星野英一編『隣人訴訟と法の役割』有斐閣参照。

3 Akky氏への嫌がらせとセルフガバナンス

(a) 最後に、インターネットをフル活用して有名となり、東芝に対してはともかくも謝罪を引き出したAkky氏に対しては、数々の嫌がらせが寄せられた。本人のいうには8000通を越える中傷メールが届いたという。そして東芝問題を考える数々の掲示板が開設され、Akky氏のサポートの動きも盛んであったが、これらの掲示板にはいわゆる「掲示板荒らし」ともいうべき無意味低劣メッセージの連続書き込みなどが続いた。またAkky氏を中傷する掲示板などへの書き込みには東芝社内のコンピュータから発信されたものもあったという。マスコミやメールマガジンなどのライターも相手の都合を考えない取材は当たり前として、Akky氏の個人情報を漏らしたものもあったという。そして御堂岡となのる人物は、自らのウェブや掲示板にてAkky氏の誹謗、自首せよなどという発言、実名の掲示などを繰り返し行っていた。

ネットワーク上で実名などの個人情報が暴露されれば、ネットワーク外でもおもしろ半分で電話をかける者や嫌がらせをする者が現れ、Akky氏の生活に大変な損害を与える。それを承知で誹謗中傷等を繰り返す者たちは、前に述べた隣人訴訟の時代からそのような幼児性から抜け出せない者が多数存在することは現実であって、必ずしもネットワーク利用者に限ったものではない。また必ずしも匿名でそのような行為をすると限ったものでもないが、確信犯的な小児病患者は別として、匿名で書き込みができる環境が助長していることは否定できない。

こうした現状に対してかって、サイバースペースのユートピア幻想がまだ残っていた時代には、悪さをするものには「パスワードやアクセスナンバーを全部ばらまいて、ジャンジャン電話をかけて、このサイトを潰してしまえばよい」ので法執行機関の介入は不要だとする議論も存在した*12。そして今回のケースでも、Akky氏非難の掲示板に無意味な連続書き込みがなされており、嫌がらせに対して自力救済的な行動に出ようとした者もいたようである。

しかしそのような自力救済はしょせん正統性のない恣意的なものにすぎず、結局ネットワークで我が物顔に悪さをする者と同レベルに落ち込んでしまう。

(b) 2 では、大企業相手に一人で果敢に問題提起をしたAkky氏に対して、過重な負担かもしれない応訴もあえて甘受すべきだと結論づけたが、嫌がらせまでも甘受すべきだとは到底言えない。マスコミの集中的な取材も含め、このような扱いに耐えなければモノを言えないという社会は正当ではない。

最近のニュースによれば、イギリスで内部告発をした者に対しての差別的取り扱いを禁止する法律ができたという。このことは洋の東西を問わず、異議申立をして社会的な平安をかき乱す者に対してはネガティブな反応があり得るし、それを予防すべき必要があることを教えてくれる。ただしAkky氏のケースでは、内部告発とは異なるので、社内的な不利益取扱い禁止では足りず、社会的なネガティブな反応に対する防御が必要とされている。いうまでもなく、何か発言をするということはその内容について責任を負うということなので、批判を受けること、時には強い調子の非難を受ける可能性もあり得るし、それは甘受すべきである。しかしそれを越えて誹謗中傷にも耐えなければならないというのは正当ではない。そのような反応に対しては、きっちり法的な手段を含めた対抗措置をとっていくべきである。

ここでもやはり、裁判を受ける権利を現実に保障するための司法インフラを法曹人口も含めて整備し、訴え提起や応訴の負担に対する専門家のサポートが得やすくする必要に帰着する。また裁判だけでなく、裁判外の紛争処理機構(いわゆるADR)を用意し、より簡易で迅速な手続きによるトラブルの処理の可能性を開く必要も指摘できる。

そのような装置が現実化されてはじめて、サイバースペースは自由な議論領域となりうるのである。

*12) 座談会「サイバースペースは『独立』できるか」インパクション98号102頁(山崎カヲル発言)


インターネット法律協議会